推しを推す、そして万物に感謝する。

元書店員。日常のオススメやアレコレの話を。

髪の毛自慢は過去の栄光にすがる後ろ姿に成りかわって

お疲れ様です。

 

 

出勤したら、職場の男性社員・Cさんの髪がスッキリしていた。

いつも誰かが髪の毛を切ったのを見ると、「いいなぁ」と思う。

 

余程自分も切ったばかりじゃないと、特に前髪がすぐに邪魔になってきて、基本的に切りたいなぁと思っている。

 

サッパリしてる、いいなぁ、と思って、遠目に眺める。

あんまりジッと見るのもよろしくない。

 

まぁ、切りに行けばいい話なんですけれども……。

 

 

前回来店した美容院は、初めてのところでした。

なんだかオシャレで、しゃらしゃらしたカーテンが上からつるしてあって、ナチュラルテイストというのか、そういう感じの雰囲気で、美容師さんはとても優しくて、

 

そして、なんと、前髪だけのカットなら無料なんです。

 

そこも優しい。

 

この情報を口にすると、尚更「切りに行けばいいじゃん」と言われそうですが、私もそう思っています。さっさと切りに行けばいい、と。

 

近々行きます、たぶん。

 

 

 

ええと、

 

それで。

 

Cさんは「ドライヤーをかける時間が気が付いたら長くなってたからさぁ」と、このタイミングで切りに行った理由を教えてくださいました。

 

「あっ、ドライヤーちゃんと使うんですね!」

 

と私が驚いたところ、

 

「そりゃ使うよー!」

 

という返事は心外だなぁ!と言わんばかりで。

私が思っている以上に、髪の毛が短い人も、ちゃんとドライヤーで髪の毛を乾かしているのかもしれない。

 

他意はなく、私がドライヤーを普段使わないから驚いたのです、と伝えたところ、それはそれで

 

「えぇー????」

 

と大声が返ってきて、ちょっと笑ってしまった。

 

 

お風呂に入るタイミングが遅くなってしまって、早く寝たいときはドライヤーを使います。

濡れたまま寝るのは、ちょっと、いや、かなり次の日の朝大変だろうし、髪にも悪そうだし。

 

分かってる、髪に良い悪いという話をするならば、恐らくすぐに乾かした方がいいことも。

 

でも、ほら、すぐ乾くって知ってるから……。

 

 

実家であんまりドライヤーが稼働しているところを見て育ってこなかった、というのは大きな理由としてある。

大げさに言えば、そもそも我が家にはそういった文化がなかった、ということ。

 

もう一つ理由を挙げるとするならば、母からの遺伝である。

 

髪が傷みにくい。

傷む前に切っちゃう、というサイクルも相まって、本当にこれはありがたいことに、髪について困ったことが今まで、恐らくない。

 

そして髪の毛を染める、という文化もなかった。

 

そしたら傷まないよねぇ……。

こればかりは親に感謝である。

 

 

 

今日、髪の毛の話をしていた時にふと、5年くらい前のことを思い出した。

 

仕事中レジ打ちをしていたときに、商品を持ってきたお姉さんに

 

「えっ、すっごい髪キレイですね……」

 

と言われたことがあった。

お客さんが店員に問い合わせ以外で話しかけることが稀だし、その上個人的なこととなるともっと稀で、当時大変驚いた。

 

えぇあわああああありがとうございますぅ

 

みたいな奇声を発したかもしれない。

 

 

その次の日、嘘だと思われるかもしれないのだが、また別の人に

 

「こんな髪の毛が綺麗な人見たことない……」

 

とこれまたレジ作業をしているときに言われ、私は

 

何かの実験に巻き込まれているのではないかと少し怖くなったりもした。

 

あれ、待って、もしかして今私がこのことを口にしたことで実験が完遂したりする? 長年にわたっての研究? 違う?

 

 

怯えつつもどんな状態なのか気になって、帰ってから鏡を見てみたら、私も驚くくらいにトゥルトゥルの髪をした私が居て、いったい何事だと思ったのだけれど、本当に心当たりがなくて、

 

ただただ理由もなくトゥルトゥルしてたのだと知った。

 

 

その頃と比べると、今は残念ながら、ちょっと元気がないように見える。

というか、あの日の髪の毛は何かよく分からないくらい本当に輝いてた、何か特別なものを食べたのか……?

 

 

 

体力とか、そういうのも全部だけど、昔のように生まれ持ったポテンシャルだけでやっていくには、ちょっと、その、衰えている、色々。

 

生きてる証拠だよね。

 

そういうのを感じているのは確かで、

買ってから何回使ったかなぁって指折り数えられそうなドライヤーも、ちゃんと使ってあげようかな……と反省した一日でした。

 

 

健康のために気を付けないかんこと多すぎる。

ああ、こんな時間。睡眠も大事。

 

天使の深睡眠マクラ(宝島社)

本屋って何でも打ってるんだねシリーズ、と銘打ってしまいそうになった、その名も枕です。

しかも、書籍の体で売っている。力こそパワーという感じがして、私はこの勢いが大好き。

 

実際に買ってみたのですが、そして今も使用している枕なのですが、良い。

 

あんまり寝具にデリケートな人間ではないので、どういう風に良いのか説明がしがたいのですが、問題なく使えているし、カバーが外せるので洗える点が嬉しいです。

 

最初の頃にアースカラーを発売したあたり、本気を感じます。

あなたの家の寝室に、仲間に入れてください、落ち着く色ですよ、というアピール凄い。

 

 

枕、うーん、どんなのが良いかなぁ……と考えている方いらっしゃいましたら、本屋で買える枕はいかがでしょうか。

 

試してみる価値はあるかと思います。

 

 

 

 

ああ、早く寝ないと、あああおやすみなさい。

 

 

 

 

「嫌い」は極力作らない方がいいという話をしている話(そして何故か婚活サイトの話)

お疲れ様です。

 

 

私のことを「こういう風に考えてる?」と紐解くような問いかけをしてくださる人がいるのですが、それを受けて「自分はこう思ってるみたい」というのを言葉にしていくたびに

 

 

なんでこんな面倒な考えの人間になってしまったんだろうな

 

 

という単純な疑問が湧いて止まらなくなり、

 

 

ホント、もう、こんな人間、社会が受け入れてくれるのは

周りの人の優しさのおかげだよ、生かされているんだよ……

ありがたい……

 

 

という感謝に心が満たされ、

 

 

とはいえ、このクソ人間みたいな自分、嫌いにはなれない

なんなら好きでもある、だから変われないんだよな

いや、変わる必要もあるまい

 

 

という強すぎる自己愛に苛まれます。

 

今日も今日とて私は元気です。

 

 

 

その方から「自分の領域に踏み込まれるのが嫌なのでは」というお言葉もいただいたのですが、どちらかといえば、

 

「私が他の人の領域に踏み込むのが怖い」

 

のかな、と思っています。同義かな。どうだろう。

私が踏み込まれることに対しては、私が何とでも出来るから別に問題はなくて、それよりも、私が相手の見えない部分のどこに踏み込んでいるのかが分からなくて怖い。

 

人を怖がっていては、愛することもできないだろう、と思ってはいて、

でも人を好きだと思いたいので、

人を好きだと思える距離感にいたい。

 

 

人を好きでありたい、というのは裏返せば、人を嫌いになりたくない、ということで、そういえば、嫌いという感情を作りたくない、というのは、昔からある気がします。

 

 

嫌いな人がいない人は、好きな人もできないとは誰のお言葉だったのか忘れてしまいましたが、そういうことなのかな、とも思う。

嫌いな部分が見えるほど人に踏み込まない、だから好きな部分も見えない、のかな。

 

「嫌い」が世の中に一つもないなんて、たぶん嘘で、それを本当にしようとすると、心のどこかが歪んだり、破綻したりするんだろう。

いや、分かんない! 本気の本気で、嫌いなものがない人もいるのかもしれないけど。嘘って決めつけてごめんなさい。

 

 

 

嫌い、は元々作りたくなかったけど、意識して「作らない」ようにしたのは、接客業に携わってからだとハッキリ自覚しています。

 

面倒くさいお客さんがいて、でも頑なに「苦手」という言葉に押し込めていました。

 

 

……なんだこの「苦手」はセーフという、謎のルール(笑)

 

 

「嫌い」だって思ったら、自分がそのお客さんと接するのがしんどくなるのが分かっていたし、まぁそう言いつつも「嫌い」だったけど、「苦手」という言葉に助けられていた。

私はあの時、「嫌い」と「私」の間に割って入ってくれた「苦手」に感謝している。

一緒じゃね……? と思われても仕方ないけど、私にとってはそのわずかな差異が救いだった、と思う、けど、どうだったかなぁ(急激に薄れゆく記憶)

 

 

で、嫌いなものがあってもいい、とも思っている。

 

「嫌いなものがあってもいい」と考えるのと同じ頭で、「嫌いなものは極力作りたくない」と考えることには矛盾が無いので、心底困らない限り、この考えを改めることもないでしょう。

 

 

 

 

人の気持ちはとても難しい。

 

自分の複雑な心に付き合ってくれるのが無機物ならいい。

私が「いつか処分する時に楽だから」という理由で選んだ家具も、モノ申してはこない。

私がこうしたいです、という気持ちだけで進んでいく。

その「こうしたいです」が曖昧でも、問題ない。

気まぐれなので割と考えが変わることはある。

 

 

感情のあるものが相手だとこうはいかない。

 

私の複雑な心を「a」として、

相手の、私にとって不透明な心を「b」としたとき、

 

a × b = ab

 

何一つとして明瞭なものが無い(笑)

答えが無数にあって、もうどうしたらいいのか分からなくなる。

これは人間だけじゃなくて、犬や猫なども一緒で、そう思ったら私はペットを飼おうとも思えなくなる。

 

 

以前職場で猫の引き取り手を探している方に、「命を大切に出来ないので、ごめんなさい」とサイコパスみたいな断り方をしてしまって、「怖いこと言わんでよww」と言われたけど、あれは本心です(笑)

 

 

気まぐれな私を自覚していながら「大事にする」という確信が持てるはずもなくて、確信がないままに事が進むのが恐ろしい。

 

怖がりな私がハッキリと「大丈夫」と言えないことをするためには、「大丈夫」だと言えるように入念な準備や時間が必要になる。

もしくは無理矢理にでも実行するしかないような圧倒的な力が必要。

 

 

確固たる「好き」を見つけるには、準備も時間も足りない。

 

 

友人も、長年の付き合いがある方ばかりです。

みんな好き。大事にしたいと強く思っているし、友人が私を求めてくれるなら結婚してもいい(笑)

 

 

ちなみに、デミセクシュアルという言葉もあるそうで。

(上手く恋愛できない人間は、セクシュアルマイノリティについて調べがち、はあるあるだと思ってる)

 

 

 

 

 

婚活をしていたのですが、そういう意味で私には合わないシステムだった。

 

 

だって数回会ったら、大体次の話になる。

惹かれようと、惹かれまいと。

 

 

そのスピード感に振り落とされた。

いや、スピードが上がりそうな気配に怯えて途中下車した(笑)

1年くらい、アプリやサイトに登録してたけど、やめました。

 

「そうだ、この人たちは人と出会って結婚をすることを目的に集まっているんだ」

 

という当たり前のことを、何人かとお話して、ようやく体感したからです。

私が場違いでした。

もう絶対婚活はしないって決めた(笑)

 

一目ぼれという言葉もあるくらいだから、否定などするつもりもない、し、そのスピード感を持って人と人が近付いていくということに、神秘も感じる。

 

これが人と共に生きていこうという意志なんだ。

 

 って、尊敬の念が止まない。

 

 

 

 

婚活サイトやアプリ、危険なものもあるみたいだけど、大きい名前のところは割と安心だと思います。

『ゼクシィ縁結び』のアプリだと、男性も女性も有料なので、本気の人たちしかいないと思う。

 

私には合わなかっただけでアプリが悪いわけじゃないので、ぜひ、人との出会いにご活用ください。

 

でも危険なことも無きにしも非ずと忘れないでほしい。

宗教の勧誘だった、なんてこともあるかもしれないので、二人きりが怖ければ、ご友人と一緒に行ってもらうなど不安を和らげて楽しい時間を過ごしてください。

誰かと一緒でいいか、と聞かれて難色を示すだけならまだしも、「絶対嫌です」なんて返す方は、すでにその時点で怖いから、やめといた方がいい(笑)

 

 

プロフィール欄に「結婚したい気持ちは薄いので、友達探しに近い」的なことを書いたら、運営側から承諾を得られなかったことがあります。

 

「結婚に後ろ向きと捉えられる発言があります」

 

とのことだったと思う。

しっかりチェックされてるんだ、と思って安心したのを覚えています。でも自分の気持ちに嘘は付けなくて、「人生の戦友を探しています」と書いたら許されました。

 

 

『ゼクシィ縁結び』

『ペアーズ』

『with』

 

 

を利用しました。

本人確認がなされているかが分かる仕組みになっていて、運営側もバックアップというか、相談にも乗ってくれるサービスもあるみたいです。

同じ学校出身の人から検索されないようにする、みたいなシステムもあって、色々考えられてるんだなって面白かったです。

 

どんなシステムにも穴はあると思っているので、一概に「安心ですよ!」とは言えませんが、実績があるところから選ぶのが良いかなぁと思います。

 

前半、私は女性の方を想定してこの文章を打っていましたが、何の事件に巻き込まれるか分からないのは男女関係ないですよね、皆さま気を付けてご利用ください。

 

 

と、恋愛下手からお伝えします。

 

 

 

たくさんの出会いが生まれる場って、とても素敵。

 

とも思うんだけどなぁ。

 

その「素敵」が「自分にとって合う」かどうかは全くの別モノなんだな、と学んだ経験でした。

 

 

 

ちなみに彼らは「契約がなされた」から始まるパターンです。

おとなりに銀河(アフタヌーンKC

著者:雨隠ギド 出版社:講談社

ISBNコード:9784065214374

両親がいなくなり、幼い妹弟をひとりで養うため、売れない少女漫画家業に精を出す久我くん。彼の元にやってきた神アシスタント・五色さんのお陰で仕事が捗る! と思いきや、突然彼女から「わたしは、流れ星の民の姫。あなたと婚姻関係の契りが結ばれた」と宣言されてしまい……?
恋愛初心者の二人が、少しずつ少しずつお互いの為に歩み寄っていくのがとても可愛いです。もうすぐ続刊も出るようなので、私、ふふ、本屋さんに行かなくちゃ、ふふふ。

 

でも、うん、これくらい強引に契約などで進められたら、私も結婚という形を取れると思います。

決まり、ルールには従いやすい人間です。

 

 

トマトが嫌いで食べない人は、大人になってから「食べなさい」としつこく言われることは少ないだろうに、恋愛となると、大人になってから言われるようになるのは何でなんだ。

トマトは「無理なものは無理www」で済むというのに。

あ、私はトマト好きです。

 

 

 

しかし、トマトも食べられた方がいいと思うし、恋愛も同じようにちゃんと向き合えた方がいい、というのは、とてもよく分かっています(笑)

 

 

……。

 

はっ!

 

また「嫌いは極力作らない方がいい」という話をしているじゃあないか……!!

 

 

 

優しい彗星が流れ星のように私の心に突き刺さって輝くの

お疲れ様です。

 

安さに釣られて買ったアイライナー。

しっかりと粉を叩かないと、昼には目元がパンダになります。

 

ふぅ。

 

やっぱりある程度の値段のものじゃないと、良くないんですね。

いや、私と今回のアイライナーの相性が悪かっただけかもしれない。

 

出来るだけ皆と仲良くなりたいんだけど、なかなか難しいですね。

 

 

 

パンダといえば、最近はゴウヒンさんです。

アニメめちゃくちゃ良かったー……!!

 

TVアニメ「BEASTARS ビースターズ」 (bst-anime.com)

BEASTARS少年チャンピオンコミックス)

著者:板垣巴留 出版社:秋田書店

職場の方とアニメの話になった時に、強くオススメしてしまいました。

 

肉食獣と草食獣が共存する世界。主人公のレゴシはハイイロオオカミの少年で、全寮制の学校『チェリートン学園』に在籍している。

共に生活しているとはいえ、草食動物は本能で肉食動物を怖がるし、肉食動物にとってお肉は美味しい。

どうにもならない生き物としての違いを感じる中、学園内で草食動物の学生が食い殺される『食殺事件』が起き、犯人も分からず、彼らの確執はさらに深まってしまう。

 

彼らは同じ部活に在籍していたりと、私たちの思う学校生活を送っている。

相容れない気持ちを持つ学生がいる一方、捕食者と被捕食者などという存在ではなく、種族を越えて友達として接している学生も数多く存在する。

 

主人公のレゴシは肉食動物でありながら、草食動物であるウサギのハルに恋をする。

 

その他学校の外にも話は広がって、いろんな要素が詰まって、彼らの眩しい苦しい青春が描かれていて、恋愛パートも事件パートも全部面白い。

世界の在り方とかも、全部。

 

全部魅力的。

本屋に勤めていたならば、きっと鬼滅の刃の時のように

 

「あっ、売れてる。そうだよね、アニメ面白いもんね」

 

と売れ行きの伸びを喜んで見守れたのでしょう。

その立場にいないことが、こういう時に残念に思います。

 

 

オススメが飛躍して申し訳ないのですが、2期のオープニング曲とエンディング曲のどちらもを『YOASOBI』さんが担当しています。

 

彼らの楽曲が、小説を元にして作られている、という話は聞き及んでおりました。

が、その小説も拝読しておらず、曲は本当に色んな所でかかっていたので聞く機会はあっても、詳しく味わうこともなく、

 

 

キレイな声だなぁ、今人気なんだなぁ

 

 

などと悠長に構えていたら、

 

 

やられた。

 

真正面からズドンと。

 

めちゃくちゃ良い。

 

 

『優しい彗星』

 

 

あかん。

 

こんなんあかんよ。

 

 

深々と突き刺さってもうてるやん。

 

 私の心に。

 

 

 

元々ストーリー性のある、というか、場面が思い浮かぶような歌が大好きなのですが、だって、この曲のストーリーは、ほら、すでに知ってるわけじゃないですか。

原作だったり、アニメだったり、小説だったりで、すでに明瞭な場面が思い浮かぶじゃないですか。

 

優しくも切ない曲調に、誰と誰の歌なのか分かる歌詞。

 

 

こんなん、強すぎ。

 

 

とうとう『小説を歌にする』ことの強みをダイレクトに感じてしまいました。

 

YOASOBIさん、とても素敵ですね(今更)

 

 

 

新しい記憶だから2期の歌の話をしましたが、1期の主題歌も、めちゃくちゃ雰囲気があって、オシャレで、初めてBEASTARSという作品に触れるにあたって物凄くワクワクさせてくれる曲でした。

 

ぜひ、主題歌たちとともに、アニメ楽しんでいただきたいです。

 

 

 

私の前のめりなオススメを嫌な顔せずに全部聞いてくださるの、本当にありがとうございます。

いつか何かお返しが出来ると良いのだけれど。

 

 

 

人を人として見るということ

お疲れ様です。

 

祖母の家に行くと大量の野菜をいただくことが多く、大変ありがたいのですが、その日の夜はそれらがダメにならないように、切り分けたり、全てを茹でて冷凍したり、必ず大仕事の時間が必要になります。

 

楽しい時間ですよね。

片付いていく様を見るのは、とてもスッキリします。

 

 

 

 

 

タイトルの話です。

 

先日、AさんとLINEでやり取りをしていたところ、

 

「貴方は本当に人を人として見ない」

 

というお言葉をいただきました。

会話の内容は割愛しますが、流れとしては、

 

 

私がAさんに問いかけをした

 

Aさんはそれに対して、真剣に考えて、言葉を選んでお返事をくれた

 

私の問いかけがAさんにとっては思った以上に返答しづらいものだったというのに気が付いたにも関わらず、それに対しての私の返答が配慮に欠けたものだった

 

 

思いきりまとめてしまうと、このような感じでした。

「あなたは人を人として見ていないよね」というのは結構強いワードだなと一瞬思ったのですが、すぐにそう思われるのも分かる気がする、と納得しました。

 

納得してもしなくても、Aさんはそう思って口に出したことは変わらないし、真剣に考えて返した言葉を、蔑ろにされたような、踏みにじられたような、そういう気持ちになって、例えば怒りや悲しみなどのマイナスの感情が生まれたのだろうな、と想像しています。

「蔑ろにされた気分です」

とハッキリ言われたわけではないので、推測でしかありませんが、とにかく傷つけたのであれば、傷つけたことに対しては謝らねばなりません。

 

 

言葉を額面通りにしか見ないようにしているところは確かにある。

 

その言葉の裏に、隠れるというには分かりやす過ぎるような気持ちが見えていたとしても、直接的な言葉で言われていないなら、聞いていないことにしがちです。

 

知らないことにするし、見ていないことにする。

 

意図的に。

 

勝手に決めつけるのも嫌だなと思うし、違っていたらそれこそ要らないすれ違いを生むし、ハッキリ言わないのであればもしかしたら聞いてほしくないことや濁しておきたいことかもしれないし。

 

だから無いものとする。

 

その人がハッキリと示すまでは、私はそれを見なかったことにしたい。

 

その人が外側に出したものが、相手に見てほしいもの、或るいは見せざるを得ないものだと思っていて、そうしたら、その内側や裏側を考えはしても、見えていますよという顔はしたくない。

 

向かいたい方向性が一緒なら、例えば仕事の内容などなら、こうして欲しいんじゃないかな、は考えられるけれど、人の気持ちとなると、もう、なんにも出来ない。

 

Aさんにとって大切な「言葉に含ませた、確実に大体の人が感じ取れるだろう気持ち」を私が『無いもの』として扱ってスルーしたとしたら、怒られても仕方ないよなぁと思う。

 

 

人の言葉を軽く扱いたいわけじゃない。

でも、軽く扱っていると感じるかどうかの権利は聞き手にしかない。

 

だから言葉や態度は気を付けないといけない。

 

とは理解している。

 

察してほしいという場合があることも知っている。

 

それでも私はそれを改められない。

というのも含めて、申し訳なく思う。

 

 

だからハッキリと「人を人として見ていないよね」と声に出してくださったことで、私はそれを前向きに認識できて、自分に向けられた言葉として意味を噛み砕こうとしていける。

こんな言い方をしては、また良くないのでしょうが、でも私は有難いと思っています。

 

 

 

言われて直ぐは「その気持ち分かる」と思っていたのに、でも考えれば考えるほど分からなくなってくる。

 

「人を人として見る」

 

というのはどういうことなんだろう。

私はどう返事をしていたら、Aさんを傷つけないで済んだのだろう。

そもそも質問をしなければ良かったのか。

それともそんな質問が生まれるような関わり方をしないようにしていれば良かったのか。

 

「人」として接するには、「人」として接していると相手に伝わる様にするには、何を心がければいいんだろう。

 

 

私は「Aさん」のことを「Aさん」だとしか思っていない。

別の知り合いをBさんとするならば、「Bさん」のことは「Bさん」だとしか思っていない。

 

 

主語が大きく見えるけれど、Aさんが言った「人」はたぶん「Aさん」を指していて、「私の気持ちをちゃんと見てくれないよね」という意味だと思っている。

 

そうじゃなかったら、Aさんには、私が誰のことも人として見ていないように見えている、ということになる。

 

私は、誰のことも人として見れていないのだろうか。

それは私以外の人がどう感じるかに委ねられるので、私が自分をどう思っていても関係ない。

 

「人」ってなんだろう。

 

なんか、いい感じにもっと、出来たのだろうか。

 

悶々と。

 

 

 

 

ダラダラと書いていますが、結論は有りません。ごめんなさい。

 

 

人に対して思うところがあっても、直接言ってくれる人は少ない。

お客さんと一緒だな、お店について思ったことを直接言ってくれる人は少ない。良いところだろうと、悪いところだろうと。

 

だから言ってもらえると、ありがたい。

 

改められるかは別として、考えることができるから。

 

 

人の気持ちを考えましょうって保育園・幼稚園、いや、もしかしたらもっと前から習う。

そういう事なんだろうなと思う。

 

心あるモノと対峙しているということを常に忘れず、言葉を紡いでいきなさいということなんだろう。

 

下手くそに見えているんだろう。

 

 

私からも、私が下手くそに見えています。