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AX(伊坂幸太郎)、曖昧な『言葉』、『友人』について

お疲れ様です。

 

伊坂幸太郎さんの『AX アックス』を読んだ。

以下、少し内容に触れるので、1ミリもネタバレは許せない、という方は申し訳ない、とにかく面白かったのでお勧めしたいと強く伝えておく。

 

AX アックス(角川文庫)

著者:伊坂幸太郎 出版社:KADOKAWA

ISBNコード:9784041084427

「兜」は超一流の殺し屋だが、家では妻に頭が上がらない。一人息子の克己もあきれるほどだ。夫が、父親がこんな物騒な仕事をしていることは、家族はもちろん、知らない……。

 

伊坂さんは、殺し屋たちが中心になった話を何作か書いているのだけれど、今までは本当に殺し屋たちの殺したり殺されたり、一般人が巻き込まれたり、うわぁ、強い人間たちの攻防、裏の読み合い、現実には考えられないのに、どうしてこんなに現実味があって、そして殺伐としているのに、何故面白いんだろう、面白い、好き、と思いながら読んできた。

 

今回の『AX』が私は一番好きだ。

 

主人公『兜(かぶと)』は、凄腕の殺し屋で、界隈では有名人。そんな彼の怖いものは妻だ。

周りは「あの兜が、家でびくびく暮らしているのか」と笑うが、読み始めてすぐ、予想をはるかに超える恐妻家であることが発覚する。

普段は文房具メーカーの営業をしている会社員であるからして、基本的に殺し屋稼業として動くのは夜遅くになる。

「今から帰ってカップラーメンでも食べるのか?」と揶揄う同業者に対して、「馬鹿を言うな」と強めの声を出す彼はこう続ける。

 

カップラーメンはな、意外にうるさいんだよ」

 

包装のビニール袋を破る音、蓋を開ける音、お湯を注ぐ音で妻が起きる、と心配している。夜遅くに起こされた妻の機嫌が悪くなるのではないかと緊張する。

 

おにぎりやバナナは、音はしないけれど、ダメ。

もしかしたら、妻がご飯を作っておいてくれているかもしれない(年に3回くらいはそういう事があるらしい)。その時に、手作りご飯を食べた後に、おにぎりやバナナを食べる気にはなれない。それらは日持ちがしないので、食べるタイミングが難しくなる。

そうなると、最終的に行きつくのは

 

魚肉ソーセージなんだ

 

と彼は真面目な顔で言う。

殺し屋と恐妻家というギャップ、というか、そもそも家庭を持っている殺し屋という設定。家庭での殺し屋の振る舞いなんて、そんなの考えたことなかったけれど、彼は本当に優しいお父さんなのだ。

 

職業が殺し屋なだけで、家族を想うお父さんの、奮闘記だった、と思う。

 

映画化してほしいような、してほしくないような、でも戦闘シーンは絶対カッコいい。見てみたい。動く兜さんを見てみたい。

彩度の低い画面で、攻防を繰り広げるシーンが思い描けそう。

 

伊坂さんの伏線のまき散らし方(その言い方どうよ)が好き。

ヒントがあって、別に謎解きしてくれって言われているわけじゃないけど、これはもしやって、ラストの映像を先走って想像してしまった時、それが、あ、絶対そうだ、きっとこれ、最後に来る、って確信を得てしまった時の、

気が付いたことによる気持ちよさと、

もう気が付かないままで読むことが出来ないという勿体なさと、

最高の展開だよな、って感嘆に喉がぎゅっと詰まる感じと、

それがどのミステリにも存在しているとして、その中でも伊坂さんのが好き。絶妙に、導いてくれる。

その感覚、クセになる。

 

ぜひ、読んでほしい。

殺し屋シリーズにハマらなかった人も、これは別物だと思って、ぜひ、読んでほしい。

 

 

途中、『友人』というものについて会話をするシーンがある。

古山高麗雄(ふるやまこまお)さんの実在する作品について触れていて、その中で「友人と知人の違いとは」という話が出てくる。

(引用の引用は御法度ですが、気軽なブログなので許していただきたく……、すいません)

 

 

「友人という言葉ほど曖昧なものはない」という作者の言葉が出て、それを読んで私は、やっぱりそうだよね!? と思った。

 

というのも、私自身も高校のころからずっと、皆の言う『友達』って一体なんだ……、と考えていた人間だからである。

 

決して、汚れなき眼(まなこ)で『友達ってなぁに?』と純粋に聞いているのでは、ない。

 

なぜそんな曖昧な言葉を互いの関係性を表す時に軽々しく使用できるのだ、という怯えから来ているものである。

 

 

私が勝手に、例えば高校のクラスメイトのAさんのことを『友人』だと思っているとして。

一人で思う分には、別に何の怯えもない。

 

けど、それをAさんが

『私たちって友達だよね?』と口にし、

『うん、もちろん』と受け入れた途端、

その『友達』という言葉の内容は曖昧なままで、二人の間で通じ合ったような気分になる。

本当はなんにも気を遣わなくてもいい気楽な関係性だったのに、突然名前が付くことによって、私は色々と考え始める。

 

分かっているような感じで頷いてしまったけど、友達として、応えられているだろうか、Aさんから求められていることはなんなんだろうか、共通の意識を持っているんだろうか、大丈夫か、とそわそわしてくる。

 

口にしなければ、個人で楽しんだり、嚙み締めたりする分には全然。ホントに。全然気にならない。

 

 

お互いが発した『友人』という言葉の内容が、ずれていたって構わない、気にしない、傷つかない、どう捉えられたって問題ない、それくらいの信頼があって、ようやく使える、と私は思ってしまう。

 

 

『友人』に限らず、言葉って本当に曖昧。

私は人が使う言葉の意味を、あまり信じていない。

信じていない、というのは違うか……つまり、そのまま聞いていいものか悩む。

そこに感情が乗っている限り、辞書通りの意味ではないと思うから。

 

でも悩んだところで分からないから、結局そのままの意味で捉えることにしている。

逐一聞くわけにもいかん。会話が進まなくなる。

 

 

でもコミュニケーションを取るうえで、私たちには言葉というツールが必要で、それがコミュニケーションの全てではなくても、かなりの割合を占めている。

だから使う。

曖昧でも使う。

ドキドキしながら使っている。

 

たぶん、ドキドキしながら使わなくても済むようになったら、少しの言葉のズレではきっと私たちの間に問題はよっぽど起きないだろうな、という安心感や安定感が生まれていると気が付いたら、その相手は私にとっての『友人』なのかもしれない。

(もちろん、親しき仲にも礼儀あり、という言葉を忘れてはならない)

 

 

そんな感じで人に対して言葉を使うことに怯える私が、関係性を言葉にせよ、と言われた時に言える最上級の表現は、

 

クラスメイトAちゃんと私の関係は「クラスメイトAちゃんと私」だよ〜

 

なんだと思う。

それ以上でも以下でもない、私と貴方が共にいることによって生まれる全てが、2人の関係性の全てなのだと、どんな言葉よりも曖昧かもしれないけど、これが一番正しいんじゃないかと思って仕方ない。

 

 

人の気持ちや心や曖昧なものを表す言葉は、辞書を引いてもちゃんとした意味は分からなくて、だから人が話す言葉は面白いし、楽しいし、怖いし、大切にしなくてはならないと思う。

 

たぶん、大切に出来てないんだよなぁ。

 

難しい。

言葉は結局、人の心そのものなんだと思ったら、本当に難しい。

 

『大切』も曖昧。

 

 

それでも大切にしたいと思うんだけれど。

 

 

 

 

……また何を言いたかったのか、分からなくなってしまった。

とにかく

 

 

AXはいいぞ!!

 

ぜひ!

 

 

あ、殺し屋シリーズもぜひ!