推しを推す、そして万物に感謝する。

元書店員。日常のオススメやアレコレの話を。

神様はコンビニと下の階におんさる

随分前のことだけど、引っ越しをした。少し長い話になると思う。

 

 

アパートの部屋を借りていたので、退去の際には管理会社の立ち会いが必要だった。

立ち会いというのは「この傷は元からあったものですか?」とか「壊れているものや場所はありますか?」とか、どこまで自分が修理代を支払うべきものなのかを見てもらう、大切な儀式である。

 

引っ越し作業自体はもう済んでいて、部屋の中には何もなし。

手荷物も最小限。確認してもらったらそのまま旅立つという状況。

 

管理会社の人が来る前に自分で部屋の中を確認しておこうと思い、約束の時間よりも少し先に部屋に入った。

引っ越しまでに時間があったので掃除もまぁまぁ出来ていたし、壊れていた部分もないし、ここの電球だけ最初から付いていなかったことを伝えて……。

 

と、一つだけやり残したことがあった。それだけはやらなくてはいけなくて。

最初にこの部屋を借りた時、洗濯機の蛇口が合わなくて、自分で買ったものに取り換えた。それを忘れていて、元々の蛇口を持って引っ越してしまったのだ。

カバンにしっかりと入れてきた蛇口を取り出して(寝る前に何度も入っていることを確認した)、それを元通りに付け直せばようやく部屋が最初の状態に戻る。

 

さて、付け替えを……と蛇口を目の前にして気が付く。ちょい、コレどうやって取り外す。金具が、なんだこれ。外れないじゃないか。手でなんとか。いや無理だわ。全然、無理だわ。

そりゃそうなんですよね。洗濯機の蛇口の金具って、本当にしっかりと締めないと床が水浸しになって大惨事になる。素手でどうにか出来るものじゃない。

 

普段は出来るかぎり他人様に迷惑はかけないようにと生きているつもりなんですけども、この時ばかりは私の行動力がメーターを振り切った。

どうせもうこの土地から出ていく身だし。

アパートの部屋のチャイムを端から順に押していく。

ほとんど話したこともなければ、顔も知らない人が多い。そもそも平日の真昼間だったので、在宅中の確立は低い。それでももしインターホンを確認した人がいたら警戒されないよう、受け答えの準備を心の中で繰り返す。

 

突然すいません私上の階に住んでいる者なんですけれども六角レンチって持ってませんか、突然すいません私上の階に住んでいる者なんですけれども六角レンチって持ってませんか、突然すいません私上の階に住んでいる者なんですけれども六角レンチって持ってませんか

 

六角レンチを探す女。

ホラーのタイトルとしてどうですか。

 

結果として、誰もチャイムに応じてくれる人はいなかった。一人だけ、チャイム関係なくたまたま外に出てきた人がいらっしゃって、声をかけたら「六角レンチってなんですか?」と聞き返された。眼鏡をかけた優しそうな女性の方だった。

そうだよね、工具の名前がスッと出てくる人はたぶんそういうものを所持している人だ。

 

 

諦めようかな、と思った。

たった一つ蛇口くらいで何をこんなに焦っているのだ。

でも、と思う。アパートに置きざりにしたら、すごく後悔しそうだ。アパートに置き去りにしたもんなあと未来永劫ずっと心の片隅に後悔が残るかもしれない。

現実問題、「すいません、蛇口が入居のときと変わっているのですけれど」と管理会社から電話なり掛かってきた時のことを考えると、ものすごい面倒くさい。

やっぱり、元通りにしておくのが道理なのだ。

 

このアパートの近くにはコンビニがあって、私はそこに助けを求めることにした。あと10分で管理会社の人が来る。それまでに何とか、と私は走った。まず工具が売っていないか店内を探した。無い。需要がないもんね、分かる。

店員のお兄さんと目が合った。休憩中らしく、外でタバコを吸っている。大切な休憩時間をこんなことで消費させてしまうことを申し訳なく思いつつ、声をかける。

 

「すいません、六角レンチってお貸しいただけませんか」

 

あれだけ心の中で詠唱、いや、復唱し続けていた成果か、すんなりと聞くことが出来た。コンビニの備品がバックルームに無いかな、貸してもらえないかなと思った。

 

お兄さんは嫌なひとつ顔せずに、「あるかなあ……?」と言いながら、凭れていた壁から背中を離す。コンビニの裏にでもいくのかと思いきや、端っこに停めてあった車のトランクを開けて、中を探り出した。

お兄さんの車らしい。そして、お兄さんは工具を持ち歩いているらしい。

 

え、か……かっこいいね……

 

タバコを咥えたまま、これで何とかなりそう? と取り出してくれたのは六角レンチではなかったけれど、こう、なんというか、金具の半径に合わせて幅を変えられる挟むやつ、名前は分からないけれど、とにかく立派な工具を何の躊躇いもなく手渡してくれた。

いいんですか、すいません、お借りします、すぐ返します、5分もあれば、すぐ戻ります、どうしよう、私の名前、○○と言います、ありがとうございます、お借りします、とか思いつく言葉を勢いよく吐き出して、私は走り出したのだけど、お兄さんは後ろで笑って手を振ってくれた。

 

「急がなくて大丈夫」

「コンビニの店員に、誰でもいいので返してくれればいいですから」

 

とだけ言って。

待って、やだ、好きになっちゃう。何で私これから引っ越しするんだ?

ラブストーリーは突然に始まらないままに終わる。

 

こんな状況でなければ「お兄さん、彼女、彼氏、いや、恋人はいますか?!」と聞いていたかもしれない。でもこんな状況だから助けを乞うて話しかけたわけで、つまり、そういうことなのだ。出会うべくして出会っただけなのだ。

今思い返してみると、自分が何かしら行動することの大きな意味を感じる。動けば何か起こるのかもしれない。

 

おかげさまで、私は無事に蛇口を新居に持ち帰ることが出来た。ちなみにお兄さんが貸してくれた工具はまったく金具にはまらなくて、管理会社の人が持ってきていた工具でいとも簡単に金具は緩んだ。

管理会社の人にお礼を言いつつ、コンビニに工具を先に返してきてもいいですか? と聞くと、問題ありませんよ、と言ってもらえた。外出許可。管理会社の人もとても優しかった。

 

コンビニまで走って戻った。お兄さんはもう店内に戻っていて、休憩時間は終えたようだった。工具をお返しすると「大丈夫でした?」と聞いてくれた。無事に済んだことを伝え、お礼に何か買いますと言うと、「さっき買ってくれたからいいですよ」と返される。

 

神か?

 

確かに私は工具をお借りするよりも前に、ペットボトルのお茶を1本買っている。それを覚えていてくれたことに驚いた。(コンビニの店員さんはお客さんも多いし、顔なんてそんな見ていないだろう、という偏見があった)

でもそれはお店に落ちたお金であり、お兄さん個人にお返しが出来たわけではない。引き下がりたくなかったけれど、管理会社の人も待たせているし、頭を下げられるだけ下げて、その場を去った。

ありがとうございました、お兄さん。こんなところでお礼を改めて言ったところで届きはしないだろうけれど、お兄さんの幸せを願っています。

 

 

立ち会いの最中、もう誰も来るはずのないこの部屋のチャイムが鳴った。

心当たりがない私は、それでも一応、と玄関に向かう。

 

女性が立っていた。

下の階の眼鏡をかけた優しそうな女性の方だ。

さっき、ほんの少し話をしただけの人だ。

 

「工具、見つかりましたか?」

 

女性が言う。あの一瞬、ほとんど初めて会って言葉を交わしただけの私のことを気にかけてくれていたらしい。

用事が終わって、アパートに帰ってきて、普段なら上がる必要のない階段を昇って、チャイムを押して声をかけてくれる。それってすごい労力だ。

 

私はこの1時間足らずの間に、今までで一番お礼を言ったと思う。

 

 

私が以前少しだけ住んでいた土地には、神様がいた。

話はほとんどしなかったけれど、話を出来るはずの距離にいた人たちだ。本当に流れる空気がゆっくりで、穏やかで優しい人たちが沢山いた。

私はあの場所にまた訪れたい。

 

 

そして、工具を探して走り回る人に出くわした時のため、車に工具を乗せることを検討しておきたい。

 

 

 

 

 

工具……といえば。いや、第二回にして無理矢理すぎるか。

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 プラネットガール(ビッグコミックス

著者:大石日々 出版社:小学館

ISBNコード:9784098604791

ぐぅっ……かわいいね……今後の展開が楽しみな作品です。

 

それではまた!